積むよりも速く読め!

学術書になじみがない人にも読みやすく、学問の面白さが伝わるような書籍を紹介していきたいです。

あのワクチン開発はなぜあれほど早く成功することができたのか 『mRNAワクチンの衝撃』ジョー・ミラー他/2021/早川書房

 真に大きな変革をもたらすのは、資料や論文ではなく、人なのだ。(p. 406)

 本書は2020年から世界で猛威を振るっている新型コロナウイルスに対するワクチン開発の最前線を追ったドキュメンタリーである。主役であるビオンテックは新型コロナウイルスについて中国から報告された2020年1月時点ではまだガンの治療薬を専門とする小規模なバイオテクノロジー企業であった。それゆえ、同社はワクチン開発に欠かせない大規模治験の実施や製品の大量生産を経験したことがなかったのである。そんなビオンテックが、従来の手法では2年はかかると言われたワクチン開発をわずか9ヶ月で完成させた。いったいどのようにしたこのような偉業が成し遂げられたのか。その開発の裏側に迫ったのが同書である。

 物語はビオンテックの創業者であり最高経営責任者であるウール・シャヒンによる類まれなる直観力と数字に裏付けられた予測から始まる。それは2020年1月、アジア以外での感染確認がまだ5件程度だった頃のことである。中国で発見された新型コロナウイルスによるクラスター感染についての論文を目にしたウールは、このウイルスによって世界中が大混乱に陥り、歴史的なパンデミックになることを見抜いた。さらに、ビオンテックで培ってきた技術がこのパンデミックに対抗するための武器、すなわちワクチンの開発に応用できるという確信もあった。ワクチン開発ではわずかな遅れが大量の犠牲に繋がる。当時まだガンの治療薬を事業の中心に据えていたビオンテックは突如としてそれまで経験してこなかったワクチン製造を担う会社に変身することを決めたのである。

 このように書くと、ウール・シャヒンという1人のカリスマ科学者がヒーローのように登場し、皆がそれを支えてプロジェクトが成功したのだ、という話なのだと思われるかもしれない。しかし、実際に本書を読んでもらえればそれは大きな間違いであることがわかるだろう。ワクチン開発の技術的な部分だけでも、様々な出自やキャリアの科学者たちがそれぞれの強みや経験を存分に活かして、決定的な役割を担っているし、企業としての資金調達や他企業との連携、治験の期間短縮をめぐる規制当局との折衝なども含め、開発から製造、流通までのあらゆる場面でその時々のエキスパートたち(これは科学者に限らない)が自分のやれる仕事を確実にこなしてきたことが描かれている。また、ここで活躍しているのはビオンテック関係者だけではない。この未踏のプロジェクトに出資を決めた投資家や、ワクチンの安全性確保という自身の使命を果たしながら治験期間を短縮する方法を一緒に模索し続けた規制当局や倫理委員会など、様々な立場の人間がワクチンの早期開発とその世界規模の接種というひとつの目標に向かって動いてきた。もはやイノベーションはいち個人からでもいち企業からでもなく、こうした様々な専門的知見を持った者同士の連携のもとで生まれるものになりつつあるのかもしれない。

 さて、このワクチン開発を促進した革新的技術の中心にあるのはmRNAを用いた免疫機能へのアプローチである。このアプローチも業界内では有望であると期待されていたものではなかった。その可能性を信じぬいてここまで突き進んできたビオンテックという企業があった(他にもキュアバック(独)やモデルナ(米)などがある)からこそ、今回のワクチン開発が成功したのである。これはやはりイノベーションというものはどこから芽を出すかわからないと実感するものである。ただし、ビオンテックも自分の技術を信じるだけでなにもしてこなかったわけではない。ガンの治療薬開発では成果をあげつつあったし、この治療薬開発を通じてmRNAを扱う様々な技術や必要な連携先との関係性を築き上げていたからこそ、それが今回のワクチン開発へ乗り出した際の下地になったわけである。

 開発の詳細はぜひ本書を手に取って読んでみてほしいが、最後に感想をふたつ。まず、この開発の裏側では「友人に連絡した」とか「前に仕事で一緒だった○○にメールした」とかそういった個人的な繋がりが多く活用されたことが伺える。やはり、多くの優秀な人間の協働こそがイノベーションに必須なのだな、と思わされたし、自分も(自身は大した人間ではないが)そういうのを大切にしていこうと思った。もうひとつは、いかに人道的に必要なものであっても、その供給者は利益を軽んじてはならないと思った。それは、以下の部分を読めば納得してもらえると思う。

先進国にワクチンを原価で提供するというアイデアを受け入れられなかった理由は、他にもある。ウールとエレズムは、がん治療のために開発されたテクノロジーに基づいて生み出された新型コロナワクチンの利益を、同社のメインであるがん治療に還元したいと考えていた。――(中略)――。「イノベーションには報酬がなければならない。さもないと、平均的な結果しか出せなくなります」。そのため、この問題は、少なくとも社内では解決していた。ビオンテックは暴利をむさぼるつもりはないが、利益の追求をあきらめるつもりもない。(p. 314)

イノベーションを引き起こしたものにはそれなりの報酬が与えられるべきであり、それはイノベーションへのモチベーションになると同時に、その技術がさらに発展し、より多くの人を救う次の礎になる。確かに、価格によって新型コロナワクチンの供給に支障が出るべきではないが、それはワクチンを買い取る側が真摯に支払いに応じるべきであり、不当に高価な値付けをされているのでない限りにおいて、営利企業である販売側が責められるべきではない。また、ファイザー/ビオンテックも貧困国に対しては原価に近い価格で提供するなどの配慮をおこなっていることも付け加えておく。

 一般市民である自分はこのワクチン開発の恩恵を受けて、科学の発展というのはやはり自分の想像を遥か上を進んでいて凄いんだな、などと呑気なことを思っていたが、その裏側には自分が育ててきた企業がここで終わるかもしれないという覚悟の下で開発を推し進めた人がいて、それを色々な角度から支えた多くの人がいたのである。今日も科学の発展に感謝しつつ、こういう人々のたゆまぬ努力のおかげで生活は豊かになり、安心安全に暮らせるのだということを再認識させられた本であった。

 なお、私はファイザー/ビオンテック製ではなくモデルナ製のワクチンを接種しています。もちろん、どちらも有効なワクチンであることに間違いはありませんが、ちょっと残念な気持ちになりました。

 

理論物理学者には日常がこう見えている 『物理学者のすごい思考法』橋本幸士/2021/インターナショナル新書

この「たこ焼きの半径になぜ上限が存在するのか」という問いに、「そりゃ口に一口で入るサイズやからやろ」と答えるのは簡単である。そう答える前に、ちょっと待て、物理的な理由が存在するのではないか。そう考えるのが物理学者の正しい姿であろう。僕は考えを巡らせた。なぜこの世には半径2センチメートル以上のたこ焼きが存在しないのであろうか、と。(p. 73)

 この本を読み終わってから〈なぜ私は理論物理学者にならなかったのだろう〉と思ってしまった。理論物理学を学んでいればこんなに様々な角度から日常のアレコレについて考えることができるツールを持つことができたのに、と悔やんだ。ひとつの学問分野について勉強することで日常生活に色々な場面において今まで考えたこともなかった角度から物事を考えられるようになる、というのは学問書を読むひとつの醍醐味であるが、理論物理学もまた一味違った世界の見方を与えてくれるようだ。

 本書は数ページほどのエピソードがたくさん収録されている形式なので、隙間の時間に読むには最適だ。全部で3章の構成になっており、第1章では、橋本先生が日常生活の中でいかに理論物理学を活用しているか(侵食されているか?)について書かれている。冒頭のたこ焼きの焼き方(続きはぜひ本書を読んでみてほしい)から、スーパーで人にぶつからない歩き方、ギョーザの皮とタネをどちらも余らせることなく作り終える方法まで、色々な日常の場面で我々には思いもよらない形で理論物理学が顔を覗かせる様は大変面白い。第2章では、どのようにしてこのような"理論物理学者"が生まれるのかについて書かれている。ここでも、ひたすらに高くレゴを積み上げたり、とにかく広大な迷路を書き込んだりと、〈そもそも理論物理学関係なくそういう素質の人だったのでは...?〉と思わないでもない話がたくさん出てくる。第3章では、理論物理学者がどのようにモノを考えてしまうかの思考の癖のようなものを垣間見ることができる。

 読み進めていくと、これはわかる!とか、なぜそんなことを...?とか、各エピソードごとに自分の反応にも色々あるのがわかってくる。私がつい激しく頷いてしまったのは「エスカレーター問題の解」(p. 12)、「近眼の恩恵」(p. 98)、「帰化を感じたい欲求」(p. 146)、「ハンカチのありか」(p. 200)、「整理整頓をしてしまう」(p. 204)あたり。この中でも特に共感した(というか私以外にもこういう人がいて安心した)のが「ハンカチのありか」だ。これは、ハンカチを忘れないため、そしてハンカチを入れる動作を省略するためにズボンのポケットにハンカチを入れっぱなしにする(そしてそのまま一緒に選択する)という荒業の話である。

ハンカチをズボンに入れっぱなしにするという「ライフハック(生活術)」は、単に自分が生活する上で、より自分の性質に合った生活を、それほど考えずに実行するための向上案にしか過ぎない。(中略)一つ一つ考えずに生活を安全に送ること。これは、そういった生活の上に成り立つ、様々な新しい経験や創造性の発揮、という人間の喜びの基盤となっている。だから、僕は生活のカスタマイズに勤しむ。(p. 202-3)

理論物理学者は考えるべきことと考えなくてもいいことを分けるのが得意なので、生活においてもそうなのだろう。求める結果に影響を与えない変数は脇に置いておいてよいのだ。

 皆さんも各エピソードに色々なツッコミを入れながらぜひ本書を読んでみてほしい。理論物理学者として生きる人生はとても楽しそうだ、と思わずにはいられなくなるだろう。

基礎科学を「真剣に楽しみ」続けるひとりの研究者の人生 『探求する精神 職業としての基礎科学』大栗博司/2021/幻冬舎

たとえば研究プロジェクトを選ぶのなら、自らの知的好奇心に忠実であれということです。本書第一部で仏教学者の佐々木閑さんとの対談を引用して、「どんなものでも機能が発揮できる時が幸せなのだ」と書きました。研究時間は限られているので、自分の能力がいちばん生かせてしかも意義のある研究を選ばなければならない。 価値ある研究を面白がることができるように自ら好奇心を研ぎ澄ます必要があります。(p.254)

  大栗博司さんの著作を読んだのは『大栗先生超弦理論入門』に続き2冊目である。1冊目は〈超弦理論について少しは知っておかないと死ぬときに後悔するような気がする〉というよくわからない強迫観念に駆られて購入したのだが、物理学に明るくない自分でも文章をしっかり追っていけばやってることはなんとか理解できるほどしっかりわかりやすい著作で非常に感動したことを覚えている。そして「カラビ=ヤウ空間」という言葉を覚えるのに3か月くらいかかった気がする。

 本書の話に進もう。本書は大栗さんのこれまでの人生を振り返ったもので、幼少期の様々な読書遍歴や科学(的思考)との出会いから、研究者を志し、実際に研究者となって様々な場所で研究をすることになるまでを描いた著作である。一流の研究者の方がどのような経歴を経てきたのかという事実は調べればわかることだが、その経歴に至るまでのご本人の迷いや決断の理由、あり得たかもしれない他の可能性についてはこういった形で書かれなければ(そしてそれを読まなければ)わからないままだったと思うので、大変ありがたいことだ。

 偶然にも最近、〈教養〉や〈役に立たない研究〉の話ばかり読んでいたのだが、本書も大栗先生がそのキャリアを通じて考えてきた基礎研究の在り方や重要性について書かれており、その点でも非常に参考になった。特に、外部の方に基礎研究の重要性を説明する際のことについて書かれた次の文章には大学と社会の関係性を考えるうえで非常に重要な点が描かれている。

私が所属するカリフォルニア大学は私立大学なので、財団や篤志家に基礎研究の意義を説明する機会がよくあります。その際に、「このような研究が精神的な豊かさをもたらすのはわかるが、それが人々の生活をどのように改善することになるのかも知りたい」ということをよく聞かれます。後者のような理由の方が、幅広い支援を得やすいという親切なアドバイスなのだと思います。このような時には「好奇心の赴くままに研究をしているのだ」と突き放すのではなく、質問の意図を真摯に受け止めて、基礎科学の価値とその社会的意義について丁寧に説明するようにしています。(p. 310)

ここには基礎研究がある意味では〈役に立たない〉ということについて、過大にも過少にも捉えない大栗先生の姿勢が表れている。〈偉大なイノベーションは基礎研究から生まれるのだから基礎研究は大事だ〉という主張は、そのイノベーションを効率的に起こせないのかというモチベーションで進む選択と集中への直接的な反論にはならない。〈どんな研究がイノベーションに繋がるのかわからないのだからすべての研究を評価すべきだ〉といった主張と〈好奇心の赴くままに研究している〉という主張が組み合わさると、研究者とはなんて身勝手な生き物なのだと誤解されても仕方がないように思う。自分の資産で研究しているならまだしも、現実にはやはり社会の他のセクターに回っていてもおかしくない資産で研究は進められている。どうやって社会の役に立つのかまでは難しいかもしれないが、少なくとも、その研究の行きつく先の夢やロマンをもっと熱く語る義務が研究者にはあると私は思う。

 冒頭の引用の「自分の能力がいちばん生かせてしかも意義のある研究を選ばなければならない」というのは研究に限ったことではないだろう。だが、正直これだけだとよく見かけるいい言葉でしかないように思える。本書の中で私がスゴイなと感じたのは、様々な選択肢がある中で、自分のその時点での能力ややるべきことをしっかり見失わずに、かつ、客観的に確認して選択をしている点である。これがよくわかるのはシカゴ大学助教授に転職した後、すぐに日本へ戻ることを決めた時のことについて述べられている次の箇所だろう。

残念なことに、シカゴ大学への転職は失敗でした。高等研究所では自分の研究だけしていればよかったのですが、シカゴ大学助教授ではそうはいきません。授業や学生の指導のほかにも、研究室の運営や研究資金の確保など、研究以外の業務がたくさんあります。博士号を取ったばかりの二七歳の若さで、英語力も十分ではなかった私には、米国で助教授が務まるだけの準備ができていませんでした。(p. 190)

「すぐに日本に帰らず、もう少しシカゴでやってみようとは思わなかったのか」という質問を受けることがあります。 研究者のキャリアには様々なステージがあり、適切な時期に適切なステージに進む必要があります。シカゴ大学助教授としては、「学生の指導、授業、研究室の運営、研究資金の確保など研究以外の業務」に力を割かねばならず、まだ私はその時期ではないと思いました。研究に集中し、研究者として自らを確立すべき時だったのです。(p. 191)

 大栗先生のキャリアを通じた各々のステージでの体験談は、研究者のみならず、自らの好奇心に突き動かされて生きたい人ならみな大いに参考になるものであると思う。「どんなものでも機能が発揮できる時が幸せなのだ」。私の「機能」はなんだろうな、と頭を捻りながら、この記事を終わろうと思う。次は『数学の言葉で世界を見たら』を読もうかな。『真理の探究』も気になるが...。

複雑で不確実な時代に成功するための必須条件『恐れのない組織――「心理的安全性」が学習・イノベーション・成長をもたらす』エイミー・C・エドモントン/2021/英治出版

発言より沈黙を好む心理的・社会的な力の基本的非対称性、つまり自己表現より自己防衛しようとする性質は、今後も変わらないだろう。だが発言と沈黙では、見返りもまた非対称である。自己防衛したところで空虚な勝利しか手に入らないのに比べ、自己表現すれば、意欲的な目標を実現しうるチームの一員になって野心的な目的に積極的に貢献し、それによって充実感を得られるのだ。これは、負けないようにプレーする勝つためにプレーするかの違いに等しい。負けないようにプレーするのは、意識的にであれ無意識的にであれ、マイナスの側面から身を守ろうとするマインドセットだ。これに対し、勝つためにプレーすると、プラスの側面にフォーカスし、チャンスを探し、必然的にリスクを取ることになる。(p. 230)

 

 「多様性(Diversity)」や「包摂性(Inclusive)」といった言葉が組織として成功するための重要なキーワードとして意識されるようになって久しいが、次に来るのは「心理的安全性(Psychological Safety)」かもしれない。というか、私が気が付いていなかっただけでおそらくもうそうなっているのだろう。本書は多様な人材を包摂した組織が真に機能するための土台として「心理的安全性」の重要性を実証的したものである。これは2015年に発表されたグーグルのチームを対象とした研究「プロジェクト・アリストテレス」によっても実証されて一躍有名になった。言われてみれば当たり前のことのようにも思える一方で、確かにまったく意識されてこなかった、それどころか「心理的安全性」が確保されていないことこそが「社会の厳しさ」のような言葉で当然視されて再生産すらされていたのではないだろうかとも思う。ちなみに、事業会社の話と思われるかもしれないが、ゼミナールや勉強会の運営、教室の雰囲気づくりなど、教育や学習の現場でも役に立つと思う。

 「心理的安全性」とは、端的に言うと〈社内における関係性に関わらず、気が付いたこと、知っていること、考えたことを誰もが率直に話すことができるかどうか〉といったところだ。本書では、従業員が率直に意見を述べることができない雰囲気が社内に蔓延していたおかげで取り返しのつかない事故や手痛い事業の失敗に至ってしまった事例が多く取り上げられている。人間は誰しも無能に見られたくなかったり、場を混乱させたくなかったり、人間関係を壊したくなかったりと、様々な理由で〈何かを言わない〉という選択をする。ミスすると上司に怒られたり同僚に馬鹿にされるといった雰囲気があるような「心理的安全性」が担保されていない職場では特にそれが顕著に表れるようだ。こういった組織では意思決定を行うマネジメント層にとって耳触りの良い情報のみが伝達されていき、重大な事故やプロジェクトの失敗の可能性に関する情報は隠されたりなかったことにされたりしてしまい、最終的にそれが実際に起こるまで明るみには出ない。一方で、リーダーが謙虚に無知を認め、部下の進言に耳を傾け、失敗そのものではなく失敗から学ばないことを責めるような組織では「心理的安全性」が担保される。従業員はミスを素直に報告することで再発防止に努めることができるし、現場の人間の意見が反映されておらず実際には使い物にならないようなトップダウンの施策が実施されることはない。

 本書では組織に「心理的安全性」を根付かせる方法についても様々な書かれているし、この記事を読んでくれている人もそこが知りたいかもしれないが、そこはぜひ本書を読んでほしいので割愛する。この雰囲気を作り出せるのはリーダーやマネジメント層の人だけではない、と書かれていることだけは伝えておこう。

 ところで、「心理的安全性」が重要であることは本書を読めばよくわかるのだが、それはなぜ重要なのかについてはあまり体系的に書かれていなかったように思うので、少しそれについて考えてみたいと思う。まず、「心理的安全性」が担保されている状態といない状態で違うのは、実際に起きた失敗に関する情報である。成功における失敗の重要性はたとえばGoogleXを例に次のように語られる。

以上の通り、失敗はXにとって、してはならないことではない。いや、実際、テラーが二〇一四年、BBCニュースに語ったように、「本当の失敗は、やってみてうまくいかないとわかったのに、なおも続けていくこと」なのだ。本当の失敗とは学ばないこと、あるはメンツがつぶれるほどのリスクを取らないことだという。テラーとXは、失敗を完全に受け容れているため、プロジェクトで成功したことについては全く話をしない。代わりに話すのは、「賢く失敗できない」ことについてである。賢い失敗は、技術だ。適切なときに適切な理由のために失敗できれば、役に立つ。(p. 157)

 もちろん、賢くない単なる失敗はよくないが、それを恐れて賢い失敗までしなくなってしまってはいけない。心理的安全性が重要なのは、成功に必要な失敗を迅速に重ねることができるという点にあるのだろう。

 もうひとつ、まだ起きていない失敗の可能性についての情報もある。本書にも出てくる2003年に起きたNASAスペースシャトル事故では、事前に事故の可能性に気が付いていたにもかかわらず、その懸念を表明することができなかった1人のエンジニアが登場する。ここで思うのは、現場で実際に手を動かしている人が最もそういった異変に気が付く確率が高いのではないか、ということである。普段からそれに触れている人にしかわからない違和感をしっかり掬い取ることができるか。現場とマネジメントを繋げるためのひとつの重要な要因が「心理的安全性」なのだろう。

 要するに、心理的安全性がなぜ重要なのかと言えば、現場の感覚や意見を吸い上げることで組織としての致命的な失敗を避けつつ、賢い失敗を重ねて迅速な試行錯誤を続けることができるから、と言えるだろう。試行錯誤の重要性は誰もが知っている。しかし、それを複数の多様な人間が関わり合うチームやグループといった組織でどうすれば継続できるのかというのは新たな課題であり、その一つの解決策が「心理的安全性」なのである。

www.eijipress.co.jp

基礎研究の現場を垣間見る。 『「役に立たない」研究の未来』(初田哲男ほか, 2021, 柏書房)

ただ、歴史を見るに、それでも人びとは、「役に立つかどうか」という話をすることをやめられなかった。やめられないのはなぜかというと、それがおそらく「政治的」な言葉、「未来」に関する言葉だからだと私は考えています。「有用性」とはすなわち、未来において「私の○○を認めてほしい」という話をするために持ち出すもの、あるいは「みんなにとって○○は良いことなんだ」と主張するために持ち出されるもの。そういった側面が、この言葉にはどうしてもあるのです。(p. 83)

 近年の日本の科学政策批判においては「選択と集中」という言葉が必ずと言っていいほど出てくる。本書もつまるところ「選択と集中」を科学の現場感覚から批判しているものである。最初に断っておくが、私は本書の全体的な論調についてあまり肯定的ではない。というのも、全体的に「基礎研究は重要だから重要」というトートロジー的な主張以上の主張をしているように感じられなかったからである。ただし、科学史の専門家の隠岐さやかさんのパートや発言は一歩引いた視点から、なぜ「選択と集中」が進んでしまうのか、なぜ基礎科学の重要性についての議論が一般に受け入れられにくいのか、といったような科学者と非科学者との間のすれ違いのところまで踏み込んでいてとてもよかったと思う。

 初田さんと大隈さんのパートは科学者が考える科学の在り方や重要性について、基礎研究の現場の声がわかりやすく書かれている。科学の現場ではどのように研究が進むのか、なぜ「選択と集中」が基礎研究にとって悪手なのか、といった基本的な事項について理解するには非常にためになる。ただ、ここの議論で気になる点がいくつかある。

 まずひとつは、基礎研究の重要性を説こうとするするあまり、応用研究を軽んじているような表現が見られることである。科学者が自身の純粋なモチベーションから研究を進められるようにすることが重要であることには同意するが、そのモチベーションが純粋な好奇心であることが社会貢献への思いであることよりも偉いものだというような価値基準には同意できない。

 また、基礎研究の本質さえ理解されれば科学政策がよくなるという点も気になる。仮に基礎研究の在り方が理解されたとしても政策へ反映されるうえで次に問題なのは優先順位の問題であり、他の喫緊の課題については予算を投入すれば成果が出る確率が高い中で当たるかどうか不透明な基礎研究に予算を投じる必要があるかどうかはまた別の議論が必要となるだろう。いま「選択と集中」をしている予算を広く薄い分配に変えよう、というのであればまだなんとかなるかもしれないが。

 加えて、この言い方だと非科学者が科学の本質を理解できてないのが悪い、というニュアンスも出てしまうと思うが、そもそも基礎研究者でない人が基礎研究の本質を理解できていないことを責められるのは酷なのではないか(科学政策に関わる人間が理解していないのは問題かもしれないが...)。大学進学率が5割を超える中で、なぜこれだけ多くの人がそういった状況にあるのかについては科学者や高等教育の側も反省すべき点に思われる。そもそも私だってこういった自然科学の基礎研究の在り方を誰かから教わったかというと微妙なところだ。

 思うに、本書は「選択と集中」や「有用性主導」の議論へのアンチテーゼではあるが、結局は同じ議論の土俵に乗っかってしまっているように思う。本書のタイトル『「役に立たない」研究の未来』と冒頭に引用した隠岐さんの発言部分が持つ緊張関係はそのことを示唆しているように感じる。要するにこの議論もどこかで、「未来において『基礎研究を認めてほしい』という話をするために、あるいは『みんなにとって基礎研究は良いことなんだ』と主張するため」に行われているような気がしてならないのである。

 と、ここまでやや否定的な感想を述べてきたが、問題意識や課題の理解ははっきりしているし、科学者ももっと研究活動や日常の研究生活について発信すべきだ、とか、在野の研究者のネットワークを作っていく、とか、そういった科学と社会の間の溝を埋めていこうという前向きな提案が多く挙げられているのは嬉しい限りである。

 科学者がどんな思いで研究をしているか、そしてどんな境地に立たされているのかについてしっかり知っておきたい人にはシンポジウムの書下ろしということもあり大変読みやすいのでおススメである。

教養を目指し続ける日々を送ろう 『教養の書』〈2〉(戸田山和久, 2020, 筑摩書房)

次に考えなければいけないのは、どうやったら教養への道を歩みだすことができるかだ。「歩みだす」というところがミソ。なぜなら、すでに述べたように教養は自己形成のプロセスなので、これが終わりということがありえない。教養への道は果てしなく遠い。だからわれわれにできるのは「こっちが教養方面かしら」という方向に向かってともかく歩み始めることだけだ。(p. 128)

 教養を身につけることは難しい。しかも、どうやら教養への道はプラスマイナスゼロではなくマイナスの地点からの出発のようだ。残念ながら人間の思考回路は意識的に反省して使わなければあまりにもお粗末なものであり、教養を身につけ、自分を見つめ直す視座を獲得し、様々な文明の利器を使いこなさなければ世の中の変化に正しく太刀打ちすることができない。本書の第2部と第3部では教養を身につける道に立ち塞がる敵、あるいは教養を身につけなければ立ち向かえない敵と、教養を身につけるために日々気を付けるべきポイントについて書かれている。

 第2部の議論で主にベースになっているのはフランシス・ベーコンのイドラ論である。イドラとは「おおよそ、『もとから備わっているか、外からやってきたかは問わず、正しい認識を妨げ、われわれを誤謬に陥らせる可能性のあるものすべて』くらいの意味」(p. 153)とのこと。統計学実験心理学などの発展は、人間の知性が正しい認識をするという点において決して優れたものではないことを明らかにしつつあるが、ベーコンもまた様々な知性の落とし穴に気が付いていたようだ。

 こういった落とし穴には知っていても避けがたいものが多い。しかし、これらを自覚することはそれを避けるための便利な道具を使うことを動機づける。正しい知識を導くための作法を制度化することや統計・分析ツールの活用などだ。裏を返せば、こうした手続きがなぜ重要なのかと言えば、人間は簡単に知性の落とし穴に引っかかって誤った結論を導いてしまうからなのである。

 第3部では実際にどういうことをやっていけば教養への道を歩き出せるのかについて書かれている。論理的思考やクリティカルシンキング、大学の活用の仕方など様々あるが、私が読んで痛く反省したのは「語彙が貧弱だと思考も貧弱になる」(p. 256)という箇所である。そんな何か読んでるときにいちいち単語のメモなんてしてられないよ...と思っていたが、いまはNotionとかいろいろ便利なツールがあるわけなので反省して私も語彙を増やす努力を始めようと思う。(※注)

 私は昔から本を読むことに何も抵抗がないし、どちらかと言えば好きだが、最近は絵を描けるようになるとか動画を編集できるようになるとかプログラミングとか、もっと何か直接的なものが見につくことに読書の時間を充てた方がよいのでは、と感じていた。本を読んでも目に見えて何かができるようになったり上達したりするわけでもないしな、と思い始めていたからである。しかし、本書を読んでから、まだまだ読書から学びきれていない部分があるし、それが活きれば嬉しいけどそもそも新しいことを知れるだけで楽しいからいいじゃん、という気持ちになった。こういったブログの執筆も読書をより人生に活かす活動の一環と理解していただければ幸いです。

 

※注

私には語彙が少ないことをある種の美徳だとしていた時期があった。私自身の語彙が少ないことで私の文章には平易な語彙しか使われないため、文ごとの論理関係さえしっかりと明示できればそれは大変わかりやすい文章になる、という論法だ。いま思えば、語彙が豊富でもちゃんと相手の前提知識水準に合わせて語彙を選択すればできることだし、本書でいうところの作品の楽しみ方の二つのレベルのうちの教養要らずの方の文章しか書けないということでもあり、大変恥ずかしい。あと単純に哲学の文献とか全然読めませんでした。

 

哲学者が考える「教養」のカンペキな定義とは。『教養の書』〈1〉(戸田山和久, 2020, 筑摩書房)

大学の4年間の教育は、「専門家育成をチョットだけ」ではないそれ自体完結した目的をもつべきだ。そうでないと学生が気の毒じゃないだろうか。その目的こそ「教養の涵養」ではないかと思う。したがって、教養教育は専門教育の準備ではない。それ自体の目的と内容をもつ学部教育のコア、あるいは学部教育のすべてだ。(p. 19) 

 「教養は大切だと思いますか?」と問われて「そんなものは大切でも何でもない」と言い切れる人はそんなに多くないと思う。しかし、そもそも〈教養がある〉という状態がどのような状態なのか真剣に考え抜いたことがあるだろうか。教養を身につけるにはどのようなことをすればよいのだろうか。大切だ大切だと言われているが、なぜ大切なのだろうか。専門性の追求を少し脇においてでも身につける必要があるのだろうか。そもそも専門性と教養は対立するものなのか。こういったことが説明できなければ、「教養なんていらないよ」と主張する人に対して何も言い返すことができなくなってしまうし、ただの価値観の相違に着地してしまう。

 個人的には「教養は大切だよ」と主張したいが、ただ知識がたくさんあるだけの人を見ると(ああはなりたくないな)と思うこともあり、「〈教養〉については語るに語ることのできないもやもやした感情を抱いていた。しかし、本書を読み進めているうちに少し自信をもって「教養は大切だよ。なぜかっていうとね...」と言えるような基盤ができたように感じている(ちなみに本書では教養について語ることのもやもやについても言及されている)。

 本書の第1部では、教養に定義を与えることを目指して議論が進んでいく。まず仮定として、教養は「知識プラスアルファ」であるとされる。はじめに知識が教養の必要条件になるのかについて考えよう。それは知識が「人生からより多くの楽しみを引き出すため」(p. 51)に必要だからである。映画や文学などの作品に散りばめられた表現の中には基盤になっているものを知っていることではじめてその面白さや作者の意図を理解できるものが数多くある。つまり、同じ作品を鑑賞しても、知識の量によってその面白さをどれだけ引き出せるかが変わってきてしまう。ここに教養をもつことの大切さのひとつがある。

 次に、「プラスアルファ」の部分に話が移る。確かに、ただ知識が豊富なだけでは教養があるとは言い難いという直感はある。詳細はぜひ本書を読んでみてほしいが、ここでは、たとえば「既存の知識を絶対視はしない健全な懐疑」や「自分の意見を変えることを厭わない闊達さ」、「答えの見つからない状態に対する耐性」(p. 125)などがあげられている。これらはもちろん重要だと思うが、本書の教養の定義のユニークなところはこのような素質や能力を身につける過程やその努力も含めているところだと私は思う。本書には書かれていないが個人的に読み込むとするとこれはかつて教養があると言われていた人でも学ぶことを止めてしまえばいつでも教養がない人になってしまうという警句でもあるように思えた。

 本書自体、様々な映画や文学作品の話が散りばめられており、読めば読むほど自分の教養のなさを痛感するものになっている(本業でのご活躍を知っている戸田山先生には「いつこんなに色々なことを吸収しているのだろう...」と思わざるを得ない)。痛感したから知識を身につけようと思っても、学問的知識だけではなく、芸術作品への知識もあるし、古典も知っておきたいし、かといって現代で起こっている事柄を知らないでよいわけではないし、途方に暮れてしまう。本書の表現を借りれば「多くの人が『はいはい、あれでしょ』と理解でき、そのような理解が成り立つことを作り手も期待できるような、共通の基盤知識」(p. 45)である(本書ではこれを「古典」と位置付けている)。これを身につけていくことは大変なことだと思うし、実際本書でもその大変さについて書かれているが、戸田山先生自身がこの本を書いていて楽しそうなので私も頑張って教養を身につけてみようかな、と思わされてしまった。

 本書は、教養をめぐる様々な直感、たとえば〈教養人はなんかイヤミっぽい気がする〉とか〈読書は教養を身につけるのにどういう効果があるのか〉とかそういったことにもひとつひとつ明快な答えを与えてくれる。教養についてもやもやとした思いがある方はぜひ読んでみてほしい。

 

(『教養の書』〈2〉へ続く)