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あのワクチン開発はなぜあれほど早く成功することができたのか 『mRNAワクチンの衝撃』ジョー・ミラー他/2021/早川書房

 真に大きな変革をもたらすのは、資料や論文ではなく、人なのだ。(p. 406)

 本書は2020年から世界で猛威を振るっている新型コロナウイルスに対するワクチン開発の最前線を追ったドキュメンタリーである。主役であるビオンテックは新型コロナウイルスについて中国から報告された2020年1月時点ではまだガンの治療薬を専門とする小規模なバイオテクノロジー企業であった。それゆえ、同社はワクチン開発に欠かせない大規模治験の実施や製品の大量生産を経験したことがなかったのである。そんなビオンテックが、従来の手法では2年はかかると言われたワクチン開発をわずか9ヶ月で完成させた。いったいどのようにしたこのような偉業が成し遂げられたのか。その開発の裏側に迫ったのが同書である。

 物語はビオンテックの創業者であり最高経営責任者であるウール・シャヒンによる類まれなる直観力と数字に裏付けられた予測から始まる。それは2020年1月、アジア以外での感染確認がまだ5件程度だった頃のことである。中国で発見された新型コロナウイルスによるクラスター感染についての論文を目にしたウールは、このウイルスによって世界中が大混乱に陥り、歴史的なパンデミックになることを見抜いた。さらに、ビオンテックで培ってきた技術がこのパンデミックに対抗するための武器、すなわちワクチンの開発に応用できるという確信もあった。ワクチン開発ではわずかな遅れが大量の犠牲に繋がる。当時まだガンの治療薬を事業の中心に据えていたビオンテックは突如としてそれまで経験してこなかったワクチン製造を担う会社に変身することを決めたのである。

 このように書くと、ウール・シャヒンという1人のカリスマ科学者がヒーローのように登場し、皆がそれを支えてプロジェクトが成功したのだ、という話なのだと思われるかもしれない。しかし、実際に本書を読んでもらえればそれは大きな間違いであることがわかるだろう。ワクチン開発の技術的な部分だけでも、様々な出自やキャリアの科学者たちがそれぞれの強みや経験を存分に活かして、決定的な役割を担っているし、企業としての資金調達や他企業との連携、治験の期間短縮をめぐる規制当局との折衝なども含め、開発から製造、流通までのあらゆる場面でその時々のエキスパートたち(これは科学者に限らない)が自分のやれる仕事を確実にこなしてきたことが描かれている。また、ここで活躍しているのはビオンテック関係者だけではない。この未踏のプロジェクトに出資を決めた投資家や、ワクチンの安全性確保という自身の使命を果たしながら治験期間を短縮する方法を一緒に模索し続けた規制当局や倫理委員会など、様々な立場の人間がワクチンの早期開発とその世界規模の接種というひとつの目標に向かって動いてきた。もはやイノベーションはいち個人からでもいち企業からでもなく、こうした様々な専門的知見を持った者同士の連携のもとで生まれるものになりつつあるのかもしれない。

 さて、このワクチン開発を促進した革新的技術の中心にあるのはmRNAを用いた免疫機能へのアプローチである。このアプローチも業界内では有望であると期待されていたものではなかった。その可能性を信じぬいてここまで突き進んできたビオンテックという企業があった(他にもキュアバック(独)やモデルナ(米)などがある)からこそ、今回のワクチン開発が成功したのである。これはやはりイノベーションというものはどこから芽を出すかわからないと実感するものである。ただし、ビオンテックも自分の技術を信じるだけでなにもしてこなかったわけではない。ガンの治療薬開発では成果をあげつつあったし、この治療薬開発を通じてmRNAを扱う様々な技術や必要な連携先との関係性を築き上げていたからこそ、それが今回のワクチン開発へ乗り出した際の下地になったわけである。

 開発の詳細はぜひ本書を手に取って読んでみてほしいが、最後に感想をふたつ。まず、この開発の裏側では「友人に連絡した」とか「前に仕事で一緒だった○○にメールした」とかそういった個人的な繋がりが多く活用されたことが伺える。やはり、多くの優秀な人間の協働こそがイノベーションに必須なのだな、と思わされたし、自分も(自身は大した人間ではないが)そういうのを大切にしていこうと思った。もうひとつは、いかに人道的に必要なものであっても、その供給者は利益を軽んじてはならないと思った。それは、以下の部分を読めば納得してもらえると思う。

先進国にワクチンを原価で提供するというアイデアを受け入れられなかった理由は、他にもある。ウールとエレズムは、がん治療のために開発されたテクノロジーに基づいて生み出された新型コロナワクチンの利益を、同社のメインであるがん治療に還元したいと考えていた。――(中略)――。「イノベーションには報酬がなければならない。さもないと、平均的な結果しか出せなくなります」。そのため、この問題は、少なくとも社内では解決していた。ビオンテックは暴利をむさぼるつもりはないが、利益の追求をあきらめるつもりもない。(p. 314)

イノベーションを引き起こしたものにはそれなりの報酬が与えられるべきであり、それはイノベーションへのモチベーションになると同時に、その技術がさらに発展し、より多くの人を救う次の礎になる。確かに、価格によって新型コロナワクチンの供給に支障が出るべきではないが、それはワクチンを買い取る側が真摯に支払いに応じるべきであり、不当に高価な値付けをされているのでない限りにおいて、営利企業である販売側が責められるべきではない。また、ファイザー/ビオンテックも貧困国に対しては原価に近い価格で提供するなどの配慮をおこなっていることも付け加えておく。

 一般市民である自分はこのワクチン開発の恩恵を受けて、科学の発展というのはやはり自分の想像を遥か上を進んでいて凄いんだな、などと呑気なことを思っていたが、その裏側には自分が育ててきた企業がここで終わるかもしれないという覚悟の下で開発を推し進めた人がいて、それを色々な角度から支えた多くの人がいたのである。今日も科学の発展に感謝しつつ、こういう人々のたゆまぬ努力のおかげで生活は豊かになり、安心安全に暮らせるのだということを再認識させられた本であった。

 なお、私はファイザー/ビオンテック製ではなくモデルナ製のワクチンを接種しています。もちろん、どちらも有効なワクチンであることに間違いはありませんが、ちょっと残念な気持ちになりました。