積むよりも速く読め!

学術書になじみがない人にも読みやすく、学問の面白さが伝わるような書籍を紹介していきたいです。

哲学者が考える「教養」のカンペキな定義とは。『教養の書』〈1〉(戸田山和久, 2020, 筑摩書房)

大学の4年間の教育は、「専門家育成をチョットだけ」ではないそれ自体完結した目的をもつべきだ。そうでないと学生が気の毒じゃないだろうか。その目的こそ「教養の涵養」ではないかと思う。したがって、教養教育は専門教育の準備ではない。それ自体の目的と内容をもつ学部教育のコア、あるいは学部教育のすべてだ。(p. 19) 

 「教養は大切だと思いますか?」と問われて「そんなものは大切でも何でもない」と言い切れる人はそんなに多くないと思う。しかし、そもそも〈教養がある〉という状態がどのような状態なのか真剣に考え抜いたことがあるだろうか。教養を身につけるにはどのようなことをすればよいのだろうか。大切だ大切だと言われているが、なぜ大切なのだろうか。専門性の追求を少し脇においてでも身につける必要があるのだろうか。そもそも専門性と教養は対立するものなのか。こういったことが説明できなければ、「教養なんていらないよ」と主張する人に対して何も言い返すことができなくなってしまうし、ただの価値観の相違に着地してしまう。

 個人的には「教養は大切だよ」と主張したいが、ただ知識がたくさんあるだけの人を見ると(ああはなりたくないな)と思うこともあり、「〈教養〉については語るに語ることのできないもやもやした感情を抱いていた。しかし、本書を読み進めているうちに少し自信をもって「教養は大切だよ。なぜかっていうとね...」と言えるような基盤ができたように感じている(ちなみに本書では教養について語ることのもやもやについても言及されている)。

 本書の第1部では、教養に定義を与えることを目指して議論が進んでいく。まず仮定として、教養は「知識プラスアルファ」であるとされる。はじめに知識が教養の必要条件になるのかについて考えよう。それは知識が「人生からより多くの楽しみを引き出すため」(p. 51)に必要だからである。映画や文学などの作品に散りばめられた表現の中には基盤になっているものを知っていることではじめてその面白さや作者の意図を理解できるものが数多くある。つまり、同じ作品を鑑賞しても、知識の量によってその面白さをどれだけ引き出せるかが変わってきてしまう。ここに教養をもつことの大切さのひとつがある。

 次に、「プラスアルファ」の部分に話が移る。確かに、ただ知識が豊富なだけでは教養があるとは言い難いという直感はある。詳細はぜひ本書を読んでみてほしいが、ここでは、たとえば「既存の知識を絶対視はしない健全な懐疑」や「自分の意見を変えることを厭わない闊達さ」、「答えの見つからない状態に対する耐性」(p. 125)などがあげられている。これらはもちろん重要だと思うが、本書の教養の定義のユニークなところはこのような素質や能力を身につける過程やその努力も含めているところだと私は思う。本書には書かれていないが個人的に読み込むとするとこれはかつて教養があると言われていた人でも学ぶことを止めてしまえばいつでも教養がない人になってしまうという警句でもあるように思えた。

 本書自体、様々な映画や文学作品の話が散りばめられており、読めば読むほど自分の教養のなさを痛感するものになっている(本業でのご活躍を知っている戸田山先生には「いつこんなに色々なことを吸収しているのだろう...」と思わざるを得ない)。痛感したから知識を身につけようと思っても、学問的知識だけではなく、芸術作品への知識もあるし、古典も知っておきたいし、かといって現代で起こっている事柄を知らないでよいわけではないし、途方に暮れてしまう。本書の表現を借りれば「多くの人が『はいはい、あれでしょ』と理解でき、そのような理解が成り立つことを作り手も期待できるような、共通の基盤知識」(p. 45)である(本書ではこれを「古典」と位置付けている)。これを身につけていくことは大変なことだと思うし、実際本書でもその大変さについて書かれているが、戸田山先生自身がこの本を書いていて楽しそうなので私も頑張って教養を身につけてみようかな、と思わされてしまった。

 本書は、教養をめぐる様々な直感、たとえば〈教養人はなんかイヤミっぽい気がする〉とか〈読書は教養を身につけるのにどういう効果があるのか〉とかそういったことにもひとつひとつ明快な答えを与えてくれる。教養についてもやもやとした思いがある方はぜひ読んでみてほしい。

 

(『教養の書』〈2〉へ続く)