積むよりも速く読め!

学術書になじみがない人にも読みやすく、学問の面白さが伝わるような書籍を紹介していきたいです。

教養を目指し続ける日々を送ろう 『教養の書』〈2〉(戸田山和久, 2020, 筑摩書房)

次に考えなければいけないのは、どうやったら教養への道を歩みだすことができるかだ。「歩みだす」というところがミソ。なぜなら、すでに述べたように教養は自己形成のプロセスなので、これが終わりということがありえない。教養への道は果てしなく遠い。だからわれわれにできるのは「こっちが教養方面かしら」という方向に向かってともかく歩み始めることだけだ。(p. 128)

 教養を身につけることは難しい。しかも、どうやら教養への道はプラスマイナスゼロではなくマイナスの地点からの出発のようだ。残念ながら人間の思考回路は意識的に反省して使わなければあまりにもお粗末なものであり、教養を身につけ、自分を見つめ直す視座を獲得し、様々な文明の利器を使いこなさなければ世の中の変化に正しく太刀打ちすることができない。本書の第2部と第3部では教養を身につける道に立ち塞がる敵、あるいは教養を身につけなければ立ち向かえない敵と、教養を身につけるために日々気を付けるべきポイントについて書かれている。

 第2部の議論で主にベースになっているのはフランシス・ベーコンのイドラ論である。イドラとは「おおよそ、『もとから備わっているか、外からやってきたかは問わず、正しい認識を妨げ、われわれを誤謬に陥らせる可能性のあるものすべて』くらいの意味」(p. 153)とのこと。統計学実験心理学などの発展は、人間の知性が正しい認識をするという点において決して優れたものではないことを明らかにしつつあるが、ベーコンもまた様々な知性の落とし穴に気が付いていたようだ。

 こういった落とし穴には知っていても避けがたいものが多い。しかし、これらを自覚することはそれを避けるための便利な道具を使うことを動機づける。正しい知識を導くための作法を制度化することや統計・分析ツールの活用などだ。裏を返せば、こうした手続きがなぜ重要なのかと言えば、人間は簡単に知性の落とし穴に引っかかって誤った結論を導いてしまうからなのである。

 第3部では実際にどういうことをやっていけば教養への道を歩き出せるのかについて書かれている。論理的思考やクリティカルシンキング、大学の活用の仕方など様々あるが、私が読んで痛く反省したのは「語彙が貧弱だと思考も貧弱になる」(p. 256)という箇所である。そんな何か読んでるときにいちいち単語のメモなんてしてられないよ...と思っていたが、いまはNotionとかいろいろ便利なツールがあるわけなので反省して私も語彙を増やす努力を始めようと思う。(※注)

 私は昔から本を読むことに何も抵抗がないし、どちらかと言えば好きだが、最近は絵を描けるようになるとか動画を編集できるようになるとかプログラミングとか、もっと何か直接的なものが見につくことに読書の時間を充てた方がよいのでは、と感じていた。本を読んでも目に見えて何かができるようになったり上達したりするわけでもないしな、と思い始めていたからである。しかし、本書を読んでから、まだまだ読書から学びきれていない部分があるし、それが活きれば嬉しいけどそもそも新しいことを知れるだけで楽しいからいいじゃん、という気持ちになった。こういったブログの執筆も読書をより人生に活かす活動の一環と理解していただければ幸いです。

 

※注

私には語彙が少ないことをある種の美徳だとしていた時期があった。私自身の語彙が少ないことで私の文章には平易な語彙しか使われないため、文ごとの論理関係さえしっかりと明示できればそれは大変わかりやすい文章になる、という論法だ。いま思えば、語彙が豊富でもちゃんと相手の前提知識水準に合わせて語彙を選択すればできることだし、本書でいうところの作品の楽しみ方の二つのレベルのうちの教養要らずの方の文章しか書けないということでもあり、大変恥ずかしい。あと単純に哲学の文献とか全然読めませんでした。